♪ブーゲンビリア第52号(通巻119号)2009年4月号より
− 藤の花 −
きものの色が少しずつ地味になってきたように 料理も淡泊なものが好きになった
「恋」という言葉も もう派手すぎて 恋歌も恋の詩も書けなくなった
書けなくなったころから 古い恋うたのこころがわかり
私の恋もまた 深く ゆたかに 静かに 美しいものになっていった
藤の古木が 千条の花房をさかせるように
詩を初め純文学・古典・音楽・絵画・書・芸術というものを「分かる」という、教養を持ち合わせていないことが幸いして「感じる」という素直な感覚がとぎすまされる事があります。時に理屈や説明、背景を超えて、心に響く何かを信じたいことがあります。
さくら・桜・さくらと各地の花便りに心躍るのは、きっと春が芽吹きの季節、閉ざされた季節からの解放感だけではないかもしれません。桜の古木を見ていると、春つげ鳥がやってくる季節のめぐりにあわせて、桜の樹液が一年間の刻を溶かす神秘なエネルギーを宿らせ、最後の仕上げの春爛漫を準備しているように思えてなりません。
数日のために一年もかけて準備しているからこそ美しいのでしょうか。今年の桜に出会える、お花見ができる…何だかとてもありがたいことです。
吉川英治の「草思堂」では春の企画展が開催されているそうです。草思堂は白梅で有名ですが、新平家物語での桜の場面に心打たれるのは、日本人の誰もがあわせ持つ美意識でしょうか。
戦後まもなく、吉川英治さんが奥さんを伴って吉野山で花見をしたとき、目にした老夫婦がモデルになったそうです。こんな夫婦になりたいと思う、夫婦の憧憬の場面が、新聞のコラムに掲載されていました。
奈良・吉野山の満開の桜を眺めながら弁当を食べる老夫婦が描かれています。。
父と子、兄と弟が相争った源平の盛衰を見続けてきた医師の麻鳥が、妻に語りかける…「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつけるいちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、だれにも望めることだから」…。
今年は麻鳥夫婦をきどって静かなお花見を堪能してみては、いかがですか。