♪ブーゲンビリア第60号(通巻127号)2009年12月号より

 いよいよ押し迫り、師走の候と成りました。光陰矢のごとし、「40歳をすぎたら女の人生は急坂を転げ落ちるがごとし、時間を大切に」と、亡き母の口癖の言葉を日々実感しています。

 皆様にはどんな一年を過ごされたことでしょうか。

 私事で恐縮ですが、今年7月4日無事めでたく!?? 還暦を迎える事ができました。

 出会いや別れをくり返し、時に悩んだり、行き詰まったり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、そしてまた笑ったりと、賑やかな、楽しい60年間を無事に過ごす事ができました。

 これも、多くの友人や仲間、家族に助けられ、支えられ、また健康な心身を授けてくれた亡き両親のお陰としみじみとた感謝の気持ちで胸が一杯になりました。

 いつものことながらバタバタと気ぜわしく過ごしていますが、還暦リフレッシュに自己研鑚や病院見学、お見舞い、患者会との交流、自身へのご褒美等と何やかやと理由をつけて、グアム・バンコック・上南島・台湾・ロサンゼルスと小旅行を重ねる事ができました。

 「人生は旅のようなもの」と、よく表現されますが、日常と非日常を混ぜ合わせた時間や空間にこころ惹かれ、ジプシーや遊牧民族のように旅から旅へと繋がりながら生き、時に人生のゴールを意識しながらの「俄か旅人、俄か自由人」の気分に浸っている時間が何とも幸せを感じるひとときです。

 たとえ身体が動けなくなったとしても、時空を越え、空想の翼を広げ、自由な旅人になることは出来るのですから、やっぱり人生すてたものではありませんね!!

 生かされている事、今を生きる感動や喜びは、かけがえのないものです!!

 がんや病気におかされ身体を横にする日々が多くなっても、たとえ、どんな、小さなベッドの空間であっても、社会や人とのつながりを得た時に、その喜びや感動は身体中に広がり、自分自身をいやす力や自然治癒力が湧き出て、心を元気にしてくれるのだと思います。

 古代ギリシャ、ヒポクラテスの時代には「自然治癒力」を意味する言葉が存在していたそうですが、現代の医学辞典には「自然治癒力」という単語は見つからないそうです。

 それでも「医食同源・運動・愛・優しさ・言霊・祈り・自然の力・全体食・笑顔・食事・詩・呼吸・本・歴史書・音楽・ペット・仲間・同志・学び・時間・小川のせせらぎ・打ち寄せる波の音・風のにおい・雨音・小鳥のさえずり・星の瞬き」等などの自然界のリズムや、くつろいだ揺らぎのリズムに身をまかせば、なぜか心地よく、気が付くとこころが安定し、なにか力強い生きる力が内側から湧き上がってくるような気がします。

 「なんとなく元気がでない…、小さなことがらが頭からはなれない…、いつまでもくよくよとしてしまう…、これといって原因は思い浮かばないけど、何だかやる気が起きない…、.気がついたらため息ばかりついている…」。よろず悩み相談ではありませんが、こんな気分になった経験は誰でも一度や二度はあるのではないでしょうか。

 「人は人、自分は自分。自分には関係ない」という、あまりにも合理的な殺伐とした風潮が蔓延した、今の社会や人間関係のあり方にも原因の一端があるのではないでしょうか。

 「誰にも悩みを打ち明けられない。相談して傷つくのが怖い。他人を信用できない。」 なんだかそんな人間関係の中で生きていると閉塞間で息苦しく胸が詰ります。小さな、でも、何だか心にひっかかるトラブルも未解決のまま、ストレスだけがドンドンと雪だるま状態にふくれあがっていきそうです。

 ふさいだ気持ちにフタをしてそのままにしておいては、いつまでたっても、決して心が晴れやかになることはできません。
 「元気や明るさ、こころの軽さ」を取り戻すためにはどうしたらいいのでしょうか。生きているからには、生涯何かしらの悩みはつきものです。

 だれだって、「一人になると落ち込む」と「何とか元気になる」この感情の起伏を繰り返しながら、行きつ戻りつつしながら、一日一日を過ごしているのですから。ゆっくり休んだ後は、勇気をもって一歩踏み出しませんか。

 生も死も  ただこの日  一日  よろこびて  生きるのみ

[大河小説「人間の運命」をはじめヒュウマニズム溢れる数々の作品で有名です。芹沢光冶良先生の「富士山は命の恩人」の話は有名です。以前ティータイムで一部ご紹介させていただいた事がありました。]

 福井康之教授の「人の世に悩みは尽きない、目は心の窓、目の前に広がる世界を歪むことなくありのままに捉えることから、共に生き、共にさかえる心が育つ、生き生きと輝く澄んだ眼は、心も身体も健やかに生きている証だ」と話されました。

 また、「まなざしには攻撃と慈愛の二面性が有り、動物界では見つめるということは攻撃を意味している。人間のまなざしに二面性があるのは、対面授乳をするからだ。母親が赤ん坊に授乳する時対面し、それによって、まなざすことが優しさや親しみといったコミュニュケーションと結びつき、まなざしには本来の攻撃の意味と、後天的に学んだ慈愛とがある」との内容の深さにガッテン! と納得しました。

 なるほど「見る」ということも、「単に形を見る場合」と「物事の本質を見る場合」と二つの意味があるのですね、奥深いものですね。つい日常生活の忙しさにかまけ、うわべの現象だけを見て理解したつもりでおおざっぱに暮らしてきていましたが、反省…。そういえば確か…。宮本武蔵の「五輪の書」にも「見の目」と「観の目」ということばがでてきますが…。

 「普通の肉眼で現象を捉える物事の表面を捉える見の目。対象を全体的に捉える物事の内部に奥深く潜んでいるそのものの本質を見抜く観の目」

 物事の本質を見抜く「観の目」を鍛えるために、宮本武蔵は洞窟で修行をしたり、寺で仏像を彫っていたのでしょうか…。

 宮本武蔵のように、あるがままに、虚心に、平静な心で、正しく物事や人を観る事によって、新しい発見や新しい世界が見えてくるのかもしれませんね。

 もしや、自分自身の内にこそ「未見の我」がひそんでいるのかも知れませんね。 年末年始にゆっくりと、じっくりと、ご自身の今まで気がつかない美徳の発見・未知なる世界の発見「未見の我」と出会うるこころの旅をしてみてはいかがでしょうか。

 今年も皆様のご支援、ご協力、お知恵を頂きながら無事に一年を過ごす事ができました。

 お世話になりました。本当にありがとうございました。

 これからも仲間たちと、力を合わせ!! 健康で!! 仲良く!! 楽しく!! 元気に!!活動を続けていきたいと思います。今後ともどうぞ、よろしくお願い致します。

 皆様におかれましては、よき年末年始をお過ごしになられるよう、心よりお祈り申し上げます。