絵子の縁側便り 8月号
2025年8月
谷合 公子
暑中お見舞い申し上げます
厳しい暑さが続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
私は、先月乾いた土に足を滑らせて道路で尻餅をつき右足首を捻挫してしまいました。雨降りの日はタイル張りの道に足を取られることがありそれなりに注意していました。暑い日が続くと道は乾き滑りやすくやすくなっていることを今回痛感しました。熱中症対策も必要ですが足元にも是非ご注意ください。
さて、2025年は戦後80年の節目。戦禍を直接知る人が少なくなるなか戦争体験の継承に向け「語り部」の方を紹介する記事を新聞で読みました。そんな折、7月3日に知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市知覧)で「語り部」の方のお話を聞く機会に恵まれました。知覧平和会館のパンフレットには次のような説明があります。
“この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦で、人類史上類のない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するものです。
知覧は、1941年(昭和16年)、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていましたが戦況が緊迫し険悪となり、遂に1945年(昭和20年)本土最南端の陸軍特攻基地となり、20歳前後の若い隊員達が満州・日本内地から集結しては、家族・国の将来を思いながら出撃した地です。“
「語り部」の方のお話は18歳の特攻兵士が家族にあてた手紙と彼の写真を大きなスクリーンに映し出し、彼の生い立ちを紹介してその手紙を朗読してくれました。私は、団体旅行で集合時間が迫っていたのでお話を聞けたのは正味10分ほどの短い時間でしたが、平和の大切さ・ありがたさ、命の尊さを痛感しました。https://www.chiran-tokkou.jp/
私は子供の頃に両親が戦時中に疎開した話を聞いた覚えがあります。
父は当時6歳。3歳年上の長兄はすでに集団疎開していたため、両親と姉、妹弟の6人で名古屋に暮らしていました。ある日、空襲警報が鳴り家の中の防空壕に家族で身を潜めました。外の様子を見にいった父親が焼夷弾で回りの家が燃えているのに気づき、子供たち4人は水辺のある堀川に逃げることにしました。翌朝迎えにきた両親と戻ると自宅は全焼、一面焼け野原でした。父は母方の実家のある知多半島の田舎に疎開し、とにかく「ひもじかった」そうです。一方母は、当時8歳。やはり名古屋に住んでいましたが、自らの母方の実家のある佐渡に疎開しました。白いお米を食べることができたため、ひもじい思いはしなかったものの、両親が恋しくて海岸沿いから海を眺めては水平線の向こうにいる両親を想い泣いていたそうです。母の実家の床の間の壁には軍服を着た男性の写真が飾ってありました。その男性は戦死した祖父の兄弟でした。祖父母が「生きていたら」と悔しそうに話していた記憶があります。写真の大叔父はとても優しい顔でこちらを見つめていました。
ブーゲンビリアはくらしフェスタ立川実行委員会参加団体として長年活動しています。第24回くらしフェスタ立川は2025年2月7~8日に開催が決定。プレ企画として映画「灯籠流し」(原題:Paper Lanterns)を上映予定です。この作品は、広島で原爆の犠牲となった12名の米兵捕虜の足跡を辿り、米兵遺族との交流を実現させた日本人被爆者森重昭氏の活動を追ったドキュメンタリー映画です。森重昭氏は、2016年バラク・オバマ米大統領が広島を訪問した際、抱擁をかわしたことが世界中に報じられた方です。8日には、ブーゲンビリアが「かしこい医療消費者パート3」の学習会を開催予定です。
知覧特攻平和会館に行く前に昼食を「知覧茶屋」でいただきました。このお店には、特攻の歴史が刻まれています。佐藤早苗著「特攻の町知覧」(光人社、1997年)によりますと当時知覧には、「富家食堂」という陸軍の指定食堂があり、特攻兵が多く出入りしていました。その食堂を切り盛りしていたのが鳥濱トメさんという方で、特攻隊員から慕われ「特攻おばさん」「特攻の母」などといわれていたそうです。「知覧茶屋」は鳥濱トメさんの味をお孫さんが引き継いだお店です。当時提供されていたメニューの鶏とごぼうの釜めしは、とても美味しく温かい気持ちになりました。その上店員さん達がみな感じ良くきびきびと働いていました。そのうちの一人の青年に思わず声をかけると、間もなく夏休みに入るが、就職試験が迫っていることを屈託なく話してくれました。後になってこの爽やかな青年と「語り部」の方のお話しにでてきた特攻兵がほぼ同い年であることに気づき、胸が締め付けられました。世界中が平和でなければならない!
Photo by 玉井八平氏(玉井公子副理事長父)

