絵子の縁側便り 8月号

2024年8月
玉井 公子

 暑い日が続いておりますが、皆様、体調はいかがでしょうか? 暑くてもうダメ。クーラーが苦手なので、かえって寒いなど、体調管理の難しい時期です。食事や水分、睡眠を十分にとって乗り切ってください。

 8月の原稿であれば、私には書かなければならないことが有ります。8月の戦争の話はもう飽き飽きと思われるかも知れませんが、お付き合いください。

 毎号写真を提供させていただいている父は、昭和5年生まれです。昭和19年に「満蒙開拓青少年義勇軍」に応募し、翌年5月に満洲に渡りました。

 開拓団の男性が徴兵され、手薄になった開拓を子どもたちに担わせようという計画です。

 この写真は、満州に渡る直前に、出征する兄と家族と一緒に撮ったものです。

 左端が父、中央は兄です。学徒動員で農家に行っていたので、戦時中とは思えない丸い顔をしていますが、それでもお腹いっぱい食べてはいなかったそうです。

 満洲に着いてたった3か月でソ連の侵攻に遭うとは夢にも思わなかったでしょう。

 日本軍は先に南へ撤退し、何の情報も無く、指揮系統も崩壊し45日間、大人のリーダーもいない逃避行で多くの仲間を失うことになりました。

 隣で仲間が倒れても、かわいそうとも思わない状況。一つ違えば死んでいるのは自分。「戦争は人の心を無くすんや」「衣食足りて礼節を知ると言うやろ。足りて無かったら礼節もなんも無いんや」「戦争の時のことを思たら、何でもあらへん」兵隊では無かったので人殺しこそしなかったものの、地獄を覗いてきたのです。こんな幼い顔をした少年たちが、です。

 開拓地から原野を抜けて何とか街にたどり着き、一度ソ連に捕まりながらも少年だからとシベリアには送られず、中国人に雇われたりしながら、翌年に帰国することができました。京都の西山に父のいた中隊の慰霊碑があり、数年前まで毎年4月に慰霊祭が行われていました。

 「戦争言うんは、勝ってるときは、そら気持ちのええもんなんや。ワールドカップとかオリンピックで日本が勝ってる時みたいにな。せやけど負けたら、そらみじめなもんや。周り(現地の人)もみんな敵になる」「戦争はしたらあかん。第一、腹が減る」「自分が行かへんヤツが、戦争したがるんや」

 今、ウクライナでの戦争に加え、ガザでの空爆のニュースが毎日のように流れてきます。私の母は昭和20年の3月、大阪の大空襲で焼け出されました。母は昭和4年生まれ。セーラー服の制服にあこがれて入った女学校では、モンペでの通学を強制され、授業などはほとんど無く、和文タイプや電話の交換手として動員される毎日でした。

 焼夷弾が降ってくる中を、幼い弟を背負って逃げまどい、機銃掃射された時には笑っているパイロットの顔が見えたと言います。手塚治虫氏も同じ体験を描かれています。極限状態ではそういう能力が発揮されるのでしょう。

 幸い家族は誰も命を落とすことはありませんでしたが、焼けた家ではお茶碗やレコードがそのままの形で灰になっていたと言います。母の写真も貼りたいところでしたが、戦前の写真は当然ながら全く残っていません。戸籍すら役場ごと焼けてしまい、母のルーツはたどることはできません。

 「花火はきらい。空襲みたいな音がするから」「火事は怖い。泥棒はお茶碗とかまでもっていかへんけど、火事はみんな持っていくさかい」「死んだらあかんで。死んだ気になったら、何でもやり直しできんねんから」「出かけるときは、靴だけはちゃんとはいて行きや。何かあっても、足元がしっかりしてたら逃げられるねんから」

 戦争を知っている方は、本当に少なくなりました。少しでも話を聞いている私などは、ほんの80年ほど前に、こんな悲惨な体験が戦地に行った人だけでなく、農地や住宅地で繰り広げられていたことを忘れてはいけないし、語り継いでいく必要があると思っています。もし、身近に戦争体験をしている方がいらっしゃったら、ぜひお話を聞いてください。

 ガザやウクライナ、他にも世界中で紛争が行われている現在です。一日も早い、平和を願いつつ、日本が戦争をしない国で有り続けてほしいと祈る8月です。

写真:副理事長玉井公子父 ・玉井 八平