♪ブーゲンビリア第81号(通巻148号)2011年9月号より

 夫と初秋の風を感じながら、緑に包まれた武蔵野の国分寺にある「お鷹の道」を久しぶりに歩いてみました。ひんやりとした緑の木々のカーテンが350メートルほど続いていて、その先に清流に流れ込む湧き水群のひとつに「真姿の池」があります。平安時代の絶世の美女、玉造小町にまつわる伝説によると、病の平癒を願い全国行脚の小町が立ち寄り、池で身を清めると、病気が治ったと伝わっています。玉造小町の由来にあやかって、冷たい湧き水を口に含んで、ゆっくり目を閉じ、深呼吸をするとなんだか五臓六腑に清々しさが染みわたり生まれ変わったようなさわやかな気分に包まれました。

 こんなさわやかな日は、美味しいお茶を楽しもうと夫とお洒落なカフェに立ち寄りました。体に良いものをと、りんごに似た甘い香りのカモミールティーは・・・・・過ぎ去った人生の時間までも巻き戻してくれるようでした。当時、院生の夫の奨学金がでる日は喫茶店で待ち合わせ、古本屋をひやかし、一杯飲み屋に立ち寄るのがとても贅沢な時間のように思えました。紅茶とモンブランを食べる私を待ちながら、夫は何杯も水をお変わりしながら、熱く語ったものでした。

 ミックスサンドにしようか、モンブランにしようかとメニューを決めかねていると「やめとけ!! 太るぞ!!」夫の無粋な一言が、やわらかな空気を打ち破りました。何だか急に損した気分とともに現実に舞い戻ったら、取り立ててワクワク、ドキドキする話題もないので、愚息へのやるせなく切ない母心とバカ息子への甘ったるい愚痴を夫に吐き出すと、いつもの元気な私に戻りました。

 帰りに大型書店に立ち寄りました。21世紀は脳の時代といわれているし、人生は長いようで短い、もうすぐ読書の秋、意欲的に勉強をして脳を使い、心身の活性化を図っての老化防止対策。さあそのためにも「勉強」しようと数冊の参考書を購入しました。ゆっくりと本を物色中の夫をせかせながら店を後にしました。

 社会人になってからの「勉強」は、実生活に密着した人生万般の幸・不幸に通じる奥の深い勉強ができるという世間の定説を信じて、楽しく勉強、しかも大きな効果をあげる、時間を有効に使うためには、ここは勉強に取りかかる前に「勉強の計画」をしっかり立てることが早道と考えました。自分自身で勉強法を編み出した矢矧春一郎さんの古い著書「独創的勉強術」を拾い読みしてみると「ユネスコ・パリ宣言」「学習権」の文字に出会いました。何それ?と、読みすすめてみると・・・ユネスコ・パリ宣言「学習権」宣言とは、今から26年も前の宣言で(1985年第4回ユネスコ国際成人教育会議採択)勉強への基本姿勢が解説されていて、今読んでもその理念の確かさにおもわず納得しました。

 『「学習権」とは、読み、書く権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読みどり、歴史をつづる権利であり、教育の手だてを得る権利であり、個人および集団の力量を発達させる権利である。学習権は、未来のためにとっておかれる文化的なぜいたく品ではない、それは、生き残るという問題が解決されてから生じる権利ではない。それは、基本的な欲求が満たされた後に行使されるようなものではない。学習権は、人類の生存にとって不可欠な道具である。もし、世界の人びとが、食糧の生産やその他の基本的な人間の欲求が満たされることを望むならば、世界の人々は学習権をもたねばならない。もし、女性も男性も、より健康な生活を営もうとするならば、人びとは学習権をもたなければならない。もし、私たちが戦争を避けようとするなら、平和のうちに生きることを学び、お互いに理解しあうことを学ばねばならない。「学習」こそは、キーワードである。学習権なくしては、人間発達はありえない。

 端的に言えば、学習権は、今日の人類にとって決定的に重要な諸問題を解決するためにわたしたちがなしうる最善の貢献のひとつなのである。・・・・・・中略・・・・・・さらに人類全体として、自ら運命を自ら制御することができるようにと努力している女性と男性が.直面している問題でもある。』と、解説されていました。

 計画を立てる前から何だか理念、志の高さに圧倒され、すっかり勉強の意欲は萎えてしまいましたが、情けない・・・・とりあえず気を取り直して、創業450年もの長い間製造業を続けてきた虎屋さんの竹包みの羊羹、到来ものに感謝しながら大胆に切って、濃いお煎茶をいただきながら学習権の続きを読みはじめました。

 「この計画によって必ず自分の未来が明るく開ける! 自分の勉強で運命が良い方へ動いていく!と考えることです。こうして自己実現を目指して優れた人間になれば、その人の知識・能力・人間性は、必ずや世の中の薬に立つはずです。・・・・・・中略・・・・・。大事なのは「貢献しよう」という志です。自分だけ得をしようとするのでは、うまくいかない。他に貢献しようという気持が強いほど、勉強にも熱がこもるはずです」と結ばれていました。なるほど、真の「勉強」とはなんとスケールが大きく、奥が深いものなのでしょうか。我欲を越えた勉強の中から生まれ、人間の本質、存在を掘り下げ、生きるという根源的な意味を追求するのが生きた勉強なのですね・・・・・・。

 厳しい環境下で崇高な志のもと、学問や修行を積み重ねた「法然・親鸞」が掲載された週刊誌の特集記事が気になって切り抜いたのを思い出しました。作家の白取春彦氏が、「法然800回忌・親鸞750回忌」に寄せて国立博物館で開催される特別展について書いた記事でした。

 「今、日本は大震災や原発事故を体験して、それぞれの心の中に、実はあった、他への思いやり、他と力を合わせようという心が、表にあらわれてきた。この困難な時代にあって、あらためて彼等の教えを知り、意味を考えることは、生きるヒントになるかも知れません。」と読者に投げかけられた一節にひかれました。

 「動乱の時代、阿弥陀を信じ念仏を唱えれば全ての人が救われると、説いた浄土宗の祖、法然。その法然を師と仰ぎながらも俗世におりて妻帯し、肉を食し、浄土真宗を開いた親鸞。法然、親鸞が生きたのは、道行けば人の死体がころがっているような時代です。平安末期から鎌倉時代への移行期は武士が台頭し、保元の乱や源平合戦など激しい戦が続き、大地震などの天変地異も頻発して、殺人や飢餓は至るところに見られ、集団自殺さえ珍しくなかった。・・・・・中略・・・・・極楽往生のために僧侶は俗を離れ厳しい修行をしなければならないし、貴族は寺社へせっせと寄進して功徳を積むわけです。だが、貧しい庶民は対象外、仏にさえ見捨てられていたようなもの。そんな絶望のただ中に、法然や親鸞が山から人前に下りてきて、念仏を唱えるだけで誰でも極楽に往ける、と説いたんです。・・・・中略・・・・念仏はもちろんだけど、人々を救ったのは、法然や親鸞が彼等に目を向け、受け入れた慈悲深さだともいえます。」よりどころを求める世相にあって、私たちを導いてくれる。と結ばれていました。

 勉強をはじめる前から挫折したので勉強は又の機会を待つとして、食欲の秋を楽しむことにしました。でも心にのこる宣言や記事に出会えたので「法然800回忌・親鸞750回忌」の特別展をのぞいてみようと思います。

 皆様はどのような秋を過ごされるのでしょうか。秋の深まりにあわせて皆様の勉強が豊に実ることをお祈りいたします。