ブーゲンビリア第33号(通巻100号)2007年9月号より
(この文章は04年9月ブーゲンビリア64号に掲載されたものを再掲載しました。)

 祇園祭に始まり、五山の送り火に終わる京都の祭りを支える伝統の力と人々の熱い心意気にひかれて、暑い京都の夏を訪ねるのがここ数年の楽しみのひとつでしたが、今夏は今ひとつ心が動かず、川床も、渡月橋も嵐山へも行かず、海辺の夕日の沈むのも見ず、山へも行かず、カナカナも聞かず、草原に咲く名もない草花と出会うこともなく…。
ただひたすら猛暑と向かい合い、我が家でオリンピック観戦と読書・乱読三昧の日々を過ごしました。

 気がつけば九月。
朝夕の風は初秋の香と秋の気配をはこんできます。

シャボン玉 飛んだ
屋根まで 飛んだ
屋根まで 飛んで こわれて 消えた…
風 風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ

 小さなお子さんを失った野口雨情さんは、どんな思いで情愛細やかなこの歌を創ったのでしょうか。

 愛するものに先立たれた、残された家族はどんな思いで…。
 愛するものを残して旅立つ人の思いは…、いかばかりなものであろうか…と、胸が締め付けられる思いです。
患者会である「絵子の会」でも、この六年半の間に数人の仲間たちから「さよなら」を告げられてきました。
人の命のはかなさ。
この世の無常に言葉もなく、ただただ身もすくむ思いで何度と無く唇をかみしめました。

 決して逃げず、精一杯「生」を大切に生き、戦い抜いた戦友たちに心からのエールと感謝を捧げます。

 
 どうもありがとう!!
 あなたに出会えたことを、決して忘れません。

 地球上の津々浦々、人それぞれに生活の営みがあり、その営みの背景に、時と時とをつなぎ、個と個と結びつける歴史があり、その歴史や生活を紡ぎ合い、「出会いと別れ」「喜びと悲しみ」「憎しみと慈しみ」が重なりあい、混じりとけあい、その融合した混沌とした現実社会こそが、もしかしたら私の描く本当の桃源郷なのかもしれません。
二〜三年前聞いた倫理研究所の稲田博巳先生の講演を思い出しました。

 大河小説「人間の運命」(全一四巻)を書かれた作家の芹沢光治良氏、九十二歳の翁に縁有って頂戴した「わが宝物です」と言われる、一枚の色紙にまつわるお話でした。色紙には墨跡鮮やかに、こう書かれていたそうです。

 生も 死も ただこの一日
 よろこびて 生きるのみ
 光治良

『芹沢氏は沼津郊外の富裕家に生まれたが、父君が天理教に入信し、全財産を神に捧げ帰依する道を選んだため、三歳の時、一家は離散の憂き目にあい、祖父母のもとで極貧生活を送り、小学五年生の時、祖父に叱られ絶望し、狩野川の激流へ身を投じようとした瞬間、「いかん!」と声がし、背後から何者かにかかえられた。
眼前の夕富士が真っ赤になって叫んでいた。
「馬鹿者!死んでどうするのだ。希望を持つんだ。強く生き抜け!」と。
お山が諭し、励ましてくれた。
まさに富士山は生命の恩人であり、以来、氏にとって、生涯の師となった』
というエッセイの一文を読んで感動した稲田先生が、当時編集していた雑誌にもっと詳しく描いて頂きたいと原稿を依頼され、こうして芹沢作家と稲田先生との出会いが始まるのでした。

 この続きはまたの機会に譲らせて頂くとして、稲田先生が書かれていた冊子の中から、元気の出る詩をご紹介します。
教育者にして僧侶の東井義雄氏の詩集から、

「目がさめてみたら」

目がさめてみたら
生きていた
死なずに 生きていた
生きるための
一切の努力を なげすてて
眠りについていた
わたしであったのに

目がさめてみたら
生きていた
劫初以来
一度もなかった
まっさらな朝のどまん中に
生きていた
いや生かされていた。

 稲田先生は、この詩には「生きていた」ことへの驚きと賛嘆、「生かされていた」ことへの感謝と畏れが見事に歌い上げられていると言われます。

 この地球を動かし、宇宙を成り立たせ、私たちを生かしめている見えざる大きな力。
それに対する感動と畏敬。
これを実感するかどうかで人間の生き方は変わってきます、と。
「私はどうかなぁー」と、お腹に力を入れて声に出して読んでみたら、体の内から生きる力がみなぎってくるような気がしてきました。
元気が、希望がわき出てきます。
どんな時でも希望を持って、笑顔で乗り越えていきましょう!!